温暖化=捕鯨

ここに書くのはどうかとも思ったのですが、一度考えを整理してみたくなったので。
あくまで私見なので、ソース等は明示していません。
散見したニュース、文献等に基づく記述であることを予めお断りしておきます。
(以下、長いので隠します)

まえがき

非建設的な状況が嫌いです。
整然と話しているのに、頭から感情的に拒否されると気分は醒めて、まともに話す気力がなくなります。
そんな自分から見て、頑張ってるなぁと思う人達が居ます。
それが、捕鯨に関する例の会議に出席している方々です。
 

本題

日本への抗議をするのに当たって、政府や大使、百歩譲って団体にクレームをつけるなら分かります。

  • 捕鯨の残酷さをアピールするために鯨類の死体を並べるのは、許容範囲です
    • あれをどこから入手したのか疑問なんですが・・・

しかし漁船員という末端の、弱い立場にある人を狙い打ちするスタイルは、テロと変わりません。
なので、調査妨害行為を非難する決議が採択された事は、素直に喜ばしいです。
これすら通らない状況であれば、IWCを脱退するべきだったと思いますから。
 
逆に言うと現段階において、脱退は不可という事になります。
理由はいくつかありますが、その中でも最大のものは京都議定書等の温暖化対策を真っ向から否定しかねないからです。
 
何故、鯨を捕ってはならないのかと憤る人達の中には、ある思いが絶対にあると考えます。
曰く、そもそも鯨が激減したのは油だけ絞ってた国があったからではないのか!
と、いうのがそれ。
これは皮をなめし、肉を食らい、骨もヒゲも利用し、塚まで立ててきた日本の文化への自負が言わせる言葉です。
 
が、捕鯨問題を語る上でこれはタブー中のタブー、決して表に出してはいけない禁じ手です。
 
何故なら、この理屈を許すと
今日の温暖化を招いているのは先進国のせいだ!」
という炭酸ガスの排出規制に対する途上国の意見に反論する資格がなくなってしまうからです。
 
つまり捕鯨と温暖化、それぞれ問題の構図は似通っており、解決へのアプローチもまた同じスタイルが踏襲できると思うのですよ。
文化を盾に理解を求める手法ではなく、徹底的に事実(不都合な真実)を提示して折り合いをつけるのが、正しいんじゃないかと。
そして。
IWC総会における日本の主張方法は、まさにこのスタイルで自分が感嘆した理由もここにあります。
 

極論

絶滅が危惧されるというのなら、如何なる理由があろうと捕獲を認めてはならないはずです。
 
それが実際には一部先住民族には捕獲が認められ、日本の沿岸捕鯨は認められませんでした。
これを二重基準といわずして何ぞや!
と、傍観者である自分ですら若干カリカリきてるのですから、当事者の心中は穏やかじゃないでしょう。
脱退の意思がある事を表明したのも肯けます。
実際には脱退しないとしても、冷水を浴びせることは必要です。
 

理想論

個人的には、世界全体で鯨の種類毎の漁獲枠を定めて、その取り分を調整する形が理想だと思っています。
(なので鯨を水産資源の一つとして考える鯨肉を求める国であれば、領海があろうとなかろうと委員会に加盟して良いと考えています)
そしてこの段階に進むためには、賛成派も反対派も同じテーブルについている事が肝心です*1
  
要は、炭酸ガスの排出量規制と全く一緒です。

温暖化対策でやろうとしていることが、どうして捕鯨で出来ないのか
その辺りを次の総会にでも、問い詰めて欲しいなぁ。
 

補記

捕鯨に反対する人の鯨類に対する友情」を察するに一番適当なのは、象なのかもしれないです。
象を食べたいと思う日本人はあんまりいないと思います。
邪魔だという日本人も皆無に近いと思います。
けれど、現地の方達にとってはどうなんでしょう?
例に挙げてみたけれど、ちょっと想像がつかないや。
 
次に適当なのは、馬かな。
競走馬を応援していても、馬肉は食べられます。
何故なら食べているのは、少なくても自分が知っている”彼ら”ではありませんから。
もし知っている”彼ら”だとしたら、



あぁ、分かった!
感情的な捕鯨反対派は、彼らが愛すべき友人(言い方は悪いけれど、つまりはペット)だと思ってるって事なのか!
それは、納得出来るわけないやね。
名前をつけて観察していれば情が移る、これは理解可能です。
 
けれどだ、それじゃ理屈としては弱いと思うのです。
競走馬には馬主が居るけれど、海に棲む鯨は誰のものでもないんだから。
一個体に向けた友情で全体を縛ろうとするなら、肉食そのものが否定されますよ?
 
牛や豚は食べても良くて、鯨は駄目というのは理解不能です。 
「鯨を食べたい」という欲求の前に、「他に食べるものがあるだろう」とするのはナンセンスで、それを言うなら「根拠を示しつつ、捕ったら絶滅してしまうから駄目」と諭すべきだと思います。
 
じゃないと、
食料の輸入を全て停止して「食べるものがないから」と捕鯨を始めたときに、反論する事が出来なくなりますよ
 
日本は「絶滅の恐れがない根拠」を探し続けてきました。
求めるのは、これに対する真正面からの反論です。
その結果、種の保存が危ぶまれ保護すべきとなったなら、無理矢理捕鯨なんてしませんて。
 
その恐れがないんだとしても、
名前をつけて観察してる個体を狙いに行く事もしませんて。
それが良識ってもんでしょう。
 
昔は「美味しんぼ」で描かれていた捕鯨に対するアプローチが正しいと思っていました。
けれど今は少し疑問です。
あの手法だと、文化の根底、精神性を理解する気のない相手には通じない危険があります。
文化の押し付けが招くものは、摩擦と対立です。
浄瑠璃を鯨の犠牲によって成り立つ血腥いもの、と思われるのは本意ではないので、矢面に立たせてはいけないんじゃないかな。
そうしないと「日本の文化はけしからん」と争点を逸らされる可能性が高いと思うのです。
 

あとがき

あぁ、スッキリした(笑)。
ここまで読んでくださった方には感謝です。多謝。
 

追記

Wikipedia捕鯨問題
これだけは、一応貼っておきます。

*1:主要排出国抜きの議定書の効力がどれだけ脆弱かも念頭に入れて考えたいです